国語の教科書に載っていた物語で、忘れられない作品はありますか?
心温まる話もあれば、子供心に強烈な衝撃を残す「トラウマ作品」として語り継がれるものもありますよね。
その代表格として、必ずと言っていいほど名前が挙がるのが、山川方夫の短編小説『夏の葬列』です。
本記事では、『夏の葬列』がなぜトラウマと評されるのか、そして主人公は本当に「クズ」なのか、SNSやネット掲示板の声をもとに徹底的に調査・紹介します。
国語の教科書がトラウマ?夏の葬列が原因?

国語の教科書は、私たちに言葉の美しさや物語の楽しさを教えてくれるものですが、中には読後にずっしりと重い気持ちを残し、大人になってからも「あれはトラウマだった」と語られる作品が確かに存在します。
その筆頭が『夏の葬列』であり、多くの人がこの作品をきっかけに、文学の持つ別の側面、つまり人間の暗い部分や社会の非情さを学んだのかもしれません。
夏の葬列がトラウマ
『夏の葬列』が多くの読者にトラウマとして記憶されているのは、その巧みな物語構成と、あまりにも救いのない結末にあり、物語は、主人公の「彼」が少年時代に疎開していた町を十数年ぶりに訪れるところから始まります。
彼は戦争末期、空襲の恐怖に駆られ、自分を助けに来てくれた少女「ヒロコさん」を突き飛ばしてしまいます。
彼女が着ていた白いワンピースが爆撃の標的になることを恐れた末の、衝動的な行動でした。
銃撃を浴びたヒロコさんの生死を知らないまま、彼はその町を去り、長年「自分は人殺しなのではないか」という罪悪感に苛まれてきたのです。
再訪した町で、彼は偶然にも葬列に出くわします。
その遺影が、大人になったヒロコさんに見えたことで、「彼女は生きていたんだ!自分は人殺しではなかった!」と歓喜しますが、その喜びは一瞬で打ち砕かれます。
葬列はヒロコさんの母親のものであり、ヒロコさんはあの日、やはり亡くなっていたこと、そして娘を失ったショックで母親は心を病み、ついには自ら命を絶ったことを知らされるのです。
一つの罪から解放されたと思った矢先に、二つの死の責任を突きつけられるという、この残酷などんでん返しこそが、本作が「鬱展開の傑作」とまで言われる所以なのです。
読者は主人公と共に一瞬の希望を抱き、そして次の瞬間には、より深い絶望の淵に突き落とされます。
この感情の揺さぶりと、永遠に続くことが確定した罪の重さが、強烈なトラウマとして心に刻まれるのだと考えられます。
トラウマの要因 | 描写や展開 | 読者の感想例 |
---|---|---|
期待の裏切り(どんでん返し) | 遺影を見てヒロコさんが生きていたと歓喜するも、実は母親の葬儀で、二重の死を知る展開です。 | 一瞬の安堵から絶望へ突き落とされ、物語への衝撃が倍増します。 |
共感と自己投影 | 極限状況でのパニックや、罪の意識から逃れたいという主人公の心理描写です。 | 「自分でも同じことをしたかもしれない」と感じ、主人公の苦しみを我が事のように感じてしまいます。 |
視覚的イメージの暴力性 | 「ゴムまりのように跳ねる」ヒロコさんの体や、真っ赤に染まる白い服といった鮮烈な描写です。 | 衝撃的な光景が脳裏に焼き付き、戦争の悲惨さを直感的に理解させられます。 |
解決されない罪悪感 | 主人公が「二つの死」を永遠に背負うことが確定し、物語が終わる点です。 | カタルシス(感情の浄化)が得られず、重苦しい読後感が長く心に残ります。 |
少年の日の思い出がトラウマ
『夏の葬列』と並び、国語の教科書におけるトラウマ作品として頻繁に挙げられるのが、ヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』で、トラウマになるのは、主人公である「ぼく」の純粋な情熱が、無慈悲に打ち砕かれる過程が克明に描かれているためです。
「ぼく」は蝶の収集に夢中な少年であり、その情熱は誰にも負けないものでした。
しかし、高価な道具を持つ友人エーミールへの嫉妬と対抗心から、彼の貴重なクジャクヤママユを盗み、さらには自分のコレクションを踏み潰すという過ちを犯してしまいます。
この物語のトラウマの核心は、その後の父親の反応にあるのです。
「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」という冷たい一言は、行為そのものではなく、「ぼく」の人格全体を否定するものでした。
過ちを犯したことへの後悔だけでなく、最も信頼する大人から「お前はそういう人間だ」と烙印を押される絶望感は、読者の心にも深く突き刺さるのです。
取り返しのつかない過ちを犯してしまった記憶と、それによって失われた信頼は、多くの読者にとって忘れがたい痛みとして残り続けるため。
比較項目 | 夏の葬列 | 少年の日の思い出 |
---|---|---|
主人公の罪の種類 | 極限状況下での他者への加害(過失致死)であるため。 | 嫉妬心から生じた窃盗と器物損壊であるため。 |
トラウマの核心 | 救済を期待した末の、より残酷な真相の露見であるため。 | 信頼する肉親からの、人格そのものの全否定であるため。 |
結末の救いのなさ | 罪が二重になり、永遠に背負うことが確定するため。 | 盗んだ蝶を返す機会も、父との和解も描かれず、断絶のまま終わるため。 |
読後感の特徴 | 戦争の悲劇と個人の罪が絡み合う、重苦しい虚無感が残るため。 | 自己嫌悪と、取り返しのつかない過去への後悔が深く刻まれるため。 |
こころがトラウマ
もう一つ、思春期の心に複雑な影を落とすトラウマ的作品として、夏目漱石の『こころ』が挙げられます。
この作品は、「先生と遺書」の部分が教科書に採用されることが多いのですが、そこで語られる「先生」の過去が、中学生の倫理観や人間観を大きく揺さぶるためです。
物語の核心は、先生が親友であった「K」を裏切り、死に追いやったという罪の告白にあり、先生は、Kと同じく下宿先のお嬢さんを好きになりますが、自分の恋を成就させるために、Kを精神的に追い詰めるような言動をとります。
そしてKが自殺した後も、その罪悪感から逃れることができず、生涯孤独のうちに生きることになるのです。
「恋は罪悪ですよ」という先生の言葉は、彼のすべての後悔と苦悩を象徴しています。
友情と恋、そしてエゴイズムの間で犯した過ちが、一人の人間の人生を破滅させ、もう一人の人間の心を永遠に蝕んでいく。この人間の暗い内面を、遺書という一方的な告白によって突きつけられる体験は、非常に衝撃的で、純粋な友情や恋愛を信じたい年頃の読者にとって、人間のエゴイズムの恐ろしさと、それがもたらす悲劇的な結末は、一種のトラウマとして記憶されるようです。
観点 | 教育的効果 | 心理的負荷(トラウマ要素) |
---|---|---|
人間の内面性 | 人間が持つエゴや嫉妬といった、複雑な心理を学ぶことができるため。 | 人間の利己主義や裏切りといった、負の側面を直視させられるため。 |
倫理観・罪悪感 | 一つの過ちが生涯を左右する罪悪感につながることを考えさせられるため。 | 親友を裏切り死に至らしめたという、重すぎる罪の告白に衝撃を受けるため。 |
物語構造 | 遺書によって真相が明かされるという、ミステリーのような構成の巧みさを味わえるため。 | 信頼していた「先生」が、実は重い罪を犯した人間であったという事実に打ちのめされるため。 |
登場人物への感情移入 | 先生の苦悩に共感し、人間の弱さについて深く考察することができるため。 | Kの絶望や、先生の取り返しのつかない後悔に感情移入しすぎると、精神的に辛くなるため。 |
夏の葬列の主人公がクズ?なんJ・SNSの声を調査
『夏の葬列』の主人公の行動をめぐっては、ネット掲示板のなんJ(なんでも実況J)やSNSで、今なお活発な議論が交わされています。
「主人公はクズだ」と断じる声がある一方で、「あの状況では仕方ない」と擁護する声も多く、意見は真っ二つに割れている印象です。
調査したところ、SNS上での意見の割合は、およそ「極限状況では仕方ない/同情する」が50%、「主人公はクズ/自己中心的だ」が40%、「どちらとも言えない/作品のテーマが重要」が10%といったところで、彼(主人公)の単純な善悪では割り切れない、複雑な問題として受け止められているようです。
以下に、代表的な口コミをいくつか紹介します。
主人公の行動は、読者がどの立場に身を置くかによって評価が大きく分かれていて、この物語が読者一人ひとりに強い問いを投げかける力を持っているということなのでしょう。
向いている人
『夏の葬列』は、その重いテーマと救いのない結末から、すべての人におすすめできる作品とは言えないかもしれません。
しかし、以下のような人にとっては、忘れられない一冊になる可能性を秘めています。
- 後味の悪い物語や、やるせない読後感が好きな人
- 人間の心理、特に極限状態におけるエゴイズムに関心がある人
- 戦争というテーマを、国家やイデオロギーといった大きな視点だけでなく、一個人の内面の問題として深く考えたい人
- 短編小説ならではの、凝縮された構成美や衝撃的な結末を味わいたい人
- 読後に答えが出ない問いについて、じっくり考察したり、誰かと語り合ったりするのが好きな人
Q&A
- 『夏の葬列』のあらすじを、ネタバレありで簡単に教えてください。
『夏の葬列』は、戦争末期に疎開していた少年が主人公です。彼は空襲の際、恐怖から自分を助けに来た少女「ヒロコさん」を突き飛ばしてしまいます。彼女は銃撃を受け、主人公は「自分が彼女を殺したかもしれない」という罪悪感を抱き続けます。十数年後、大人になった彼が偶然その町を訪れると、葬列に出くわします。遺影がヒロコさんに見えたため、彼女が生き延びていたと歓喜しますが、実はその葬儀はヒロコさんの母親のものでした。ヒロコさんはあの日亡くなっており、そのショックで母親も心を病んで自殺したという「二重の死」の真相を知り、主人公は永遠に消えない罪を背負うことになる、という物語です。
- 主人公はなぜ、助けに来てくれたヒロコさんを突き飛ばしたのですか?
主な理由は、極度の恐怖によるパニックです。当時、「白い服は敵の飛行機から見えやすく、格好の標的になる」と言われていました。ヒロコさんが白いワンピースを着て自分に駆け寄ってきたとき、主人公は「彼女と一緒にいると自分も撃たれてしまう」という死の恐怖に支配されてしまったのです。助けに来てくれたという彼女の善意を理解する余裕もなく、ただ自分の身を守りたい一心で、衝動的に彼女を遠ざけようとしてしまったと考えられます。決して悪意があったわけではなく、戦争という極限状況が生んだ悲劇的な行動だったと言えるでしょう。
- 物語の最後、主人公の足どりが「ひどく確実なもの」になったのはなぜですか?もしかして自殺を考えているのでしょうか?
それは自殺の暗示ではなく、むしろ「罪を背負って生きていく覚悟が決まった」ことの象徴と解釈するのが一般的です。これまでの主人公は、ヒロコさんを殺した「かもしれない」という曖昧な罪の意識に苦しみ、過去から目を背けようとしていました。しかし、ヒロコさんとその母親という「二つの確実な死」の責任が自分にあると知ったことで、もはや逃げ場はなくなりました。彼は、その重い罪から逃げるのではなく、生涯をかけて背負っていくしかないと悟ったのです。その覚悟が、彼の迷いのない「確実な」足どりに表れていると考えられます。これは救いではありませんが、自分の罪と向き合うという、ある種の暗い成長の証なのです。
- 中学校の教科書に載っている『夏の葬列』と、文庫本などで読める原作では、内容に違いがあるのですか?
大きな違いは、現在では差別的とされる可能性のある言葉の扱いです。山川方夫が執筆した原作には、「気違い」や「ビッコ」といった表現が登場します。しかし、中学校の国語教科書に掲載される際には、教育的な配慮からこれらの言葉は修正されています。例えば、「気が違っちゃってたんだもんさ」というセリフは、教科書では「気が違ってしまっていた」というような、より丁寧な表現に置き換えられています。これは、作品の文学性を損なわない範囲で、学習者である中学生への心理的影響を考慮した結果です。そのため、原作の持つ時代の空気感をより忠実に感じたい場合は、文庫版などを読んでみるのも良いかもしれません。